みんなと共有できる よろこびや おどろきって わずかだな
みんなと共有できる よろこびや おどろきって わずかだな
https://gyazo.com/e725d736fc1f7d2ee1f9b96227a145c9
「驚き」 “surprise” と「驚嘆」 “astonishment”
「驚き」と「驚嘆」の違いはなんなのか? っていう話なんだけど、ティム・インゴルドはこう言っている。
「驚き」については、
科学者たちはしばしば自分たちが発見するものに驚きはするが、決して驚嘆したりはしない
ここでいう驚きとは、
科学者たちが驚くのは、自分の予測が間違っているとわかるときである
しかし、まさに予測という目標は、世界が説明可能であるという独断に依存している
そして「驚嘆」については、
生成の世界においては通常のもの、あるいは平凡なもの、直観的なものでさえ、驚嘆をもたらす
ここでいう驚嘆とは、
まるで、その瞬間に初めてその世界に出くわし、その躍動を感知し、その美しさに驚き入り、そのような世界がどのようにして可能であるのかに思いをめぐらすかのごとく、あらゆる瞬間を大事にすることからもたらされる種類の驚嘆
生成する世界とは
生命は、すでに存在しており、対象自体が場所を占めている世界から生じるのではなく、
むしろその世界が連続的に生成する、あるいは存在するようになるまさにその過程に内在しているのである
驚きは共有され得る
共有できるものはなんでも共有される
インターネットでは共有できるものはなんでも共有される。けれど共有できるものは限定されててそれは reblog の数だったり、 fav の数だったり、1km を何分で走るかだったり、一ヶ月に何km走るかだったりする。
そしたこれは、インターネットの時代に限らなくて、
世界は、電信の始まりから「インフォーメーションの時代」に突入していた
遡れば、グーテンベルクの頃から「インフォーメーションの時代」だったのかもしれない
驚嘆は共有できない
出来なくはないだろうけど、
文学は「驚嘆」を取り戻すための武器なのか
自分は「文学」ってものを疎んじていたところがあったんだけど、この、ティム・インゴルドがいうところの「驚嘆」を取り戻すための武器なのかな、とか思ったり思わなかったり。
文学的な読みとは要するに、その物語が現実の写しであろうが、あるいは何らかのたとえ話であろうが、そうしたレベルの差自体を自由に選べるという意味です。あるいはそうした複数の可能性を、同時に意識しつつ読むということです。
文学的な読みとは、そうした解釈の水準そのものの設定が、読み手にまかされている場合をいいます。